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2006.01.22 シキ(1)
序章  始鬼


暗闇の中を光の筋が滑っていく。山道を一台の車が軽快に走っていた。
対向車も今は無い。ライトが照らし出すのは真白いガードレールとアスファルトのみで、邪魔するものは何もなかった。車の外まで聞こえる音量で流れているのは少し古い洋楽。この暗闇にサングラスをかけて、男はその音楽に浸っていた。
それでもどこか憎らしげに歪めた顔のまま、椰子の木が描かれている赤いアロハシャツの胸ポケットから煙草を一本取り出して火をつけた。窓を開けて風を浴び、煙をなびかせると今度は不敵に笑った。頭の中であれこれ妄想をめぐらせているのだろう。風で飛ばないように、被っていたテンガロンハットを押さえる。
その横を思い切り薙ぐようにトラックが猛スピードで通り過ぎていった。
風圧に足を取られて少し車体が左右に揺れる。両手でハンドルを握ったせいで帽子が後部座席に転がり、顔を撫でた突風が煙草を連れ去ってしまった。
「危ねぇ・・・って今のはスピード出しすぎだろ」
忌々しげにそう呟いてまだ運転中にも関わらず男は窓から顔を出し振り返ったが、トラックの明かりは彼方に過ぎ去って小さい。悔しそうに煙草を一本取り出してまた火をつけ、後ろ手に帽子を探して深く被りなおした。
急なカーブを抜けて、しばらくして男は車を止めた。点けたばかりの煙草だったが灰皿に押し付けて消し、サングラスは胸ポケットに直して扉を開けた。
「さっきのトラック、当て逃げか」
男はそうつぶやきながら座席部分まで近寄った。車は見事にへしゃげ、フロントが右半分丸ごとないような状態だ。
運転席の扉を引きちぎるようにこじ開けて室内灯をつけた。座っている人間はさすがに意識がない、いや、死んでいるかもしれない。顔の半分が、頭部からの流血で赤く染まっていた。
男はうな垂れながら血で汚れていないところを選んで掴み、血がつかないよう負傷者を引きずり出した。心臓は動いていたが出血がひどくさらに両足がおかしな方向に曲がっている。スーツの裂け目から流れる血で車内に血だまりが出来ていた。
「救急車・・・ってここ圏外じゃねぇか。呼んでも来るまでに時間がかかりすぎるし・・・もう手遅れだな」無責任にそう言って、担いだ男を傍の地面に寝かせた。
「おい、おーい、何か言い残したいことはあるか?」
相手は怪我人だというのにその血に濡れていない方の頬を打ち、肩を揺らして呼びかけた。その甲斐あってか、男は目を覚ました。焦点も定かではないようで、中空をぼうっと眺めている。
「聞こえるか?お前はもう駄目だが、何か言い残したいことはないか?」
男が怪我人にそう言うと、怪我人はゆっくりと視点を合わせた。
「・・帰り・・たい・・・」
「待ってるやつがいるのか。そりゃ不運だったな」
血にまみれた怪我人の目元から透明な雫がすぅと流れた。宙を泳いだ手が男の服に触れると、たいした力もないままそれでもしっかりと掴んで離さない。
この手は生きたいという意思なのだろう、今にも命の灯火が消えてしまいそうなこの儚い人間の。そんな風に男は考えて「生きたいのか?」そう問いかけた。首が縦に揺れるのを見届けると唇の端を持ち上げて不敵な笑みを浮かべ、男は拳をきつく握り締めた。爪が食い込んでそこから血が流れるとその血を怪我人の口元へ垂らしていく。
「穢してやるよ人間」
男はそう言って、高らかに声を上げて笑った。


「・・あ・・・が・・ああああ!」
突然襲ってきた痛みに怪我人、秋人はのた打ち回った。
先程まで感じていた水面を漂うような静かな感覚もどこかへ去ってしまい、代わりに襲ってきたのは体中を虫が這いずり回るような痛みと不快感だった。舌の先から広がったその感覚は全身を覆い、皮膚を掻き毟っても収まらない。
そんな様子の秋人を置いて、男は流れてくる風を浴びて空を見上げた。その目に暗闇の曇天を写しながら何かを考えて肩を落とす。胸ポケットを触って煙草を探したが、あいにく空になっていたようだ。
「なんだよ、さっきので最後だったのか」
そう言うと車まで歩いて、先ほど消した煙草にもう一度火をつけた。そしてそれをくわえたまま、苦しみのた打ち回る怪我人の傍を素通りして事故車の中を覗きこんだ。
「血だらけな物は置いといて、鞄と靴と上着と・・・ん、なんだ煙草吸わないのかよ」
脱いであった上着のポケットを探りながら言うが、秋人は呻くだけでそれを聞くことも、答える余裕すらもない。
入っていた財布を取り出して中を探る。
「へぇ、柊秋人っていうのか。二十三歳ねぇ、若いもんだ」
免許証からカードから、根掘り葉掘り漁っていく。写真も見つけた。秋人と妻の紗季、そして息子の昴が写っている。これが秋人の生きたいと望んだ理由だと、この男はわかるのだろうか。
車の中から秋人の私物をいろいろと取り出して、それを全て男の車のトランクに詰め込んだ。そうしている間も秋人は苦しんでいたが、自分の声が徐々に低くなっているのは分かっていた。体を蝕んでいた何かは次第に衰えて消えていくと、妙な脱力感が襲ってきて不意に意識が遠くなる。
男の目が秋人を映すと、秋人の様子は先程までとはすっかり変わっていた。スーツのボタンがとんでちぎれ、ズボンもはち切れんばかりに膨れ上がっていた。ちょうど秋人の体が倍化したかのように。
声も収まって、代わりに秋人は穏やかな寝息を立て始めていた。「寝てんじゃねぇよ」男が秋人の頬を殴ると再び意識を取り戻した。
「・・あなたは誰だ?それに、ここは・・・?」
上体を起こし、辺りを見回しながら秋人が言う。照らすライトのせいで辺りの様子がよくわからない。風邪でも引いたのか、自分の声がいつもと違って聞こえた。
「俺の名は夏王、ここはさっきの事故現場。まだ体は痛むか?」
「事故?・・・そうだ確かトラックに当てられて・・・」それから軽く肩や手を動かしてみて、なぜだかかなり窮屈だったが「どこも痛くない、かな」そう答えた。しかし体を動かした拍子にびりびりと服のあちこちが破れた。
そういえば車はどうなったろうか。そう思いながら頭を回して、あまりに無残な状態になった車を見つけた。しかしそれよりも驚いたのは取れた扉の向こう、運転席とその足元にこびり付いた黒。まだ滴る部分のその紅色は紛れもなく血だ、それも自分の。
あんなに出血していたのにもう痛みが無い、というのはどう考えてもおかしい。それに・・・。
「あの、夏王さん」夏王でいい、そう言われて夏王と言い直した。「どうして僕は生きている?」
そう問われて初めはきょとんとしていた夏王だったが、次第に笑みを浮かべて笑い声を上げながら言った。「お前がそう望んだからさ。だから俺が助けた」
秋人は勘の鈍い方の人間だったが、それでもなぜだか全身から嫌な汗が湧き出てくるのを感じた。それはまだ寒い季節の夜なのに寒さを感じていない事からか。それとも流れ出た自分の血が、妙に美味そうに見えてしまったためか。
秋人がそれ以上何も言い出せないでいると「これで顔でも見てみな」とそう言って手鏡を投げてよこした。見てはいけない、そう考えている心の声を今は抑えて、恐る恐る鏡面を覗き込み。
「ひっ・・うわああああ!」
夜空に悲鳴がこだました。思わず投げた手鏡が地面に衝突して割れる。今見たものは何だった!?
「あ!お前何してんだよ勿体ねぇなぁ」夏王はそう言って、割れた破片の中から一番大きな破片を拾った。
「な、何だ今のは!化物が・・・」
「お前だよ」
夏王がその破片を秋人へと向ける。先ほど見た形相の化物が確かにそこには写っていた。秋人がおそるおそる自分の顔を触ると、それに合わせて化物も顔を触る。
ゴツゴツした頬に腫れあがったような瞼、赤黒い色の肌の中で唯一、目だけが変わっていないようにも見える。
「ああそうか、道理で実感が無いと思った。これは夢か」
頭のどこかが必死で現実感を破棄していく。
「寝惚けてんじゃねぇよ」
そう言って夏王が投げた鏡の破片は矢のように頬をかすめた。鋭い痛みが走り、嫌でもこれが現実だと追い討ちをかけてくる。
「は・・・ははは、これが現実だっていうのか?どうしてこんな事に・・・」
「お前が生きたいと望んだんじゃないか」
「そうかもしれないけど、いったい何をしたんだ・・・こんな姿じゃ家に帰れやしないじゃないか!」
「お前を穢しただけさ。鬼の生命力ならあんな傷じゃ死にはしないからな」
「鬼だって?」
聞いた秋人に向かって、夏王は頭を指差した。そのままに手を頭部に持っていってようやくその存在に気がついた。鈍く尖った円錐形の突起が一つ。
「うわ!なんだこれ!まさか角!?」
「ご名答」
そう言って夏王が再び鏡の破片を拾って向けると、そこには確かに白い突起が一本あった。引っ張ってみても頭が痛いだけで抜ける気配は無い。
「どうなっているんだ、鬼って何だよ!?何でこんなことになってるんだ!」
そう喚きながら秋人は拳を地面に打ち付けた。コンクリートの地面なのに軟らかい土を殴ったような感触、そして地面に開いた拳の形の陥没を見てぎょっとした。自分に対しての恐怖心で少しだけ冷静さを取り戻した。
「・・・どうして僕は鬼になった?」
筋肉質な手のひらは自分のものとは思えなかった。他人の手を見ているようなのに、そこには感覚がある。
「お前は鬼に穢された。鬼に穢された人間は鬼になる」そう言いながら夏王は被っていた帽子を取った。
「穢された、って・・・あんたが鬼か、夏王」
唇の端を持ち上げて不敵に笑う夏王の頭部には、鋭く伸びた角が二本見えた。その角を隠すようにまた帽子を被りなおして、夏王が楽しそうな笑みを浮かべる。
「まぁいろいろと聞きたい事があるだろうが、そいつは道すがら話してやる。あんまりここに長居はしたくないんでな」
乗れよ、と言って夏王は助手席の扉を開けた。
「・・・家まで乗せて行ってくれるのか?」
「そんな姿で家に帰るつもりか?」
そう返されると秋人は言葉に詰まってしまった。こんな姿で帰ったところで、家族には誰だか分かるはずもない。それどころかあまりの異形に恐怖させることになるだろう。
悩めなかった。今ここで自分が選べる道は一つしか無いに等しいのだ。
「戻れるんだろうな?人間に」立ち上がりながらそう聞いた。戻れなければ、帰れなければ死ななかった事に意味はない。
少し困ったような顔をして、夏王がドアを閉めた。改めて後部座席のドアを開ける。
「方法ならある。後はお前次第だが、どうせならそのまま鬼として暮らせよ」
「それだけは御免だ」方法がある、それを聞いて少し安心した秋人は言いつつ車に乗り込もうとする。
「おい、ゆっくりだぞゆっくり」
何を今さら。夏王の過剰な慎重さに呆れながらずいぶんと小さい後部座席へ、体のバランスを崩さないように注意しつつ乗り込んだ。体がつっかえて進まないので近くにあった取っ手を握って引っ張る。
「あ、馬鹿!」と夏王が制止しようとする声と、取っ手が勢いよく千切れたのはほぼ同時だった。「ゆっくりって言っただろうがこのやろう!」夏王がそんな事を言っていたが、秋人は反応しなかった。
ずいぶんと巨体でまっすぐには座れなかったので両座席にまたがる様に斜めになったが、それでも窮屈であることに変わりは無かった。
わざわざ後部座席のドアを閉めて、それから夏王が運転席に座る。ゴソゴソと胸ポケットを探って、煙草が切れた事を思い出した。
「なぁ、煙草持ってないか?」
「持ってない・・・そうだ僕の荷物は?あの中には妻に貰った大切な財布が」
「もう運んだ、トランクの中だ」
「なんだよはじめから連れて行く気だったんじゃないか。というか鬼が煙草なんか吸うなよ」
「いいじゃねーか別に」
「あんた変わってるって言われないか?」
否定も肯定もしないまま不敵に笑みを浮かべて、夏王は車を走らせ始める。
窓越しに見える自分の愛車の無惨な姿と、その下にできた雨上がりのような血溜まりを見て改めて、秋人は自分が死んでいたかもしれないことを悟った。
その景色もすぐに流れてしまうと、まるで何もなかったかのような暗闇になった。木々の間から下に広がる町の明かりが見えて、そしてそれはよく見慣れた景色だった。このまま家に帰って、息子の顔を見て妻の話を聞いて。
しかし。その夜景と同時に映るこの顔はまぎれもなく先ほど見たままの化物、鬼の顔なのだ。
秋人は唇を噛み締めた。あの血溜まりを見て、潰れた車を見て人はどう思うのだろうか。
答えはすぐに思い浮かぶ、だけど認めたくない。
「・・・どこに向かっているんだ?」
気を紛らわせようと聞いてみた。
「どこって、俺の部屋だ。」
「部屋?じゃあ野宿とかじゃないんだ」
「当たり前だろう。偏見だぞそれは」
少し頭にきたのか、わざわざ後ろを振り返って夏王が言う。車が少し蛇行して慌てて前を向いた。
「鬼の生活なんていまいち分からなくて・・・どんな部屋なんだ?」
「ここ数年は家賃四万の2LDK、まぁなかなか住みやすい。大家さんは五月蝿いし部屋はボロいけどな」
「家賃って、収入は?」
「バイト」
「バイト!?」
鬼の口から次々と予想だにしない答えが返ってきて、秋人は少し呆然となった。まさか鬼が普通に人間のように暮らしているとは思ってもみなかった。
しかしそういえば服も帽子もセンスには少し疑問を感じるものの着こなしているし、今車を運転しているのも夏王なのだ。
「・・・そういえば運転免許は?」
「持たないで運転するわけにはいかないだろう」
こいつ本当に鬼か。なんて少し思いたくなったが、角も生えているし、死にかけていた自分を救った力もこの鬼のものだ。自分をこんな姿にしたのも。
「あんたって本当に変わってるよ」
「よく言われる」
夏王がカカカ、と軽快に笑った。つられて秋人も少し笑う。
(鬼・・・か)
子供の頃に少し考えた、刺激のある世界。こんな事になってもワクワクしている自分がいる。そのおかげで現状を受け入れるのに時間がかからなかったのは事実だが、しかし今はその気持ちを押し殺して一刻も早く体を元に戻して家に帰らなければ。
「そうだ。元に戻るにはどうすればいい?」
これだけは聞いておかなければならなかった。できることなら今すぐにでも元に戻って帰りたい。
「なぁに簡単だ。人と鬼ってのは対を成している、つまりお前は俺という鬼に穢されて鬼になっただろう?人に戻りたければ人に穢されればいい」
「・・・もう少し簡単に」
そう言うと夏王は薄く笑みを浮かべて言った。
「そうだな、人を喰え」
「はぁ!?」
「それが一番簡単な方法だ」
またもからからと笑う夏王。その姿を見ていると怒りがこみ上げてくる。
やはりこの男は鬼なのだ、人間も餌にしか見えないのだ。人なんて食えるはずがないじゃないか!
いきなり突きつけられた課題に、ただ戸惑うことしか出来ない秋人をあざ笑うかのように軽快に、闇の中を車が滑っていった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そういえば、そんな始まりだったなぁ・・・。
あの後夏王の部屋に着いて、同じように夏王に命を救われて鬼になった人に出会った。一晩寝たら夏王はコンビニのバイトに出かけて、僕は力加減の練習をした。少し握っただけでガラスのコップが割れたのには驚いたっけ。それから。
「働け!」
そんな台詞とともに頭に衝撃が走って秋人は我に返った。殴ったのはもちろん夏王だ。どうにも店の隅を延々とモップで掃除していたらしい。
秋人が鬼になってから既に七年も経っていた、経ってしまっていた。その間に醜かった体が少しずつ収まっていき、二メートル半程あった身長もようやく二メートルを切った。反対に角だけは成長していたが、それは帽子を被ることで隠した。そのおかげでようやく外に出られるようになっていた。それだけでも六年かかった。
そこへ勘を取り戻すのにかかった時間を足せば今に至る。
夏王はただのバイトから店長に成り上がっていた。その権限で秋人がここで働いているわけだが、鬼が店長を務めるコンビニ、しかも従業員の一人も鬼。事実は意外と知られないものらしい。
秋人は殴られた頭を擦りながら掃除を続けた。その手が帽子に触れて落ちそうになり、慌てて帽子を押さえる。何人かの視線が感じられたが、幸いにも角は見られてはいないようだ。
このコンビニには医学生や白衣を着た医師達が多い。それはすぐ近くに二十五階建ての国立医療センターが建っているからで、軒並み低い家々が立ち並ぶ中そびえるこの塔は街の名物にしてしまっているほどだ。実際に名医が集められた最新医療センターで、多くの患者が訪問しているらしい。
掃除を終えてモップをしまって、そこで秋人はまた考え込んだ。
七年といえば随分な時間になる。しかしそれくらい時間をかけても、人になんか戻れなかった。人を食えなんて夏王は簡単に言ってのけたが、どう考えても食えるはずがなかった。否、もし仮に食って元に戻れたとしても自分が許せないのは目に見えている、だから。
他の方法を探してみたが一向に分からず、このまま戻れないのではないかと最近では思ってしまっていた。
「おい秋人!いつまでサボってるんだ!」
怒声がして秋人は慌てて従業員室を飛び出した。
「さ、サボってたわけじゃ・・・」
そう言いながら、秋人は夏王の声を思い出す。いつもここでは名前を呼ばないはずなのだ。夏王の姿を探すと、彼はレジの奥で意地悪そうに笑っていた。
どうして笑っている。
不思議そうに目をやると夏王はあごで左を指した。その方向に視線を傾けると一人の女性がこちらを見ていた。
突然の邂逅だった。息をするのも忘れてしばらくの間彼女を見ていた。
見間違うはずがない。少し痩せやつれていたけれど、そこにいた女性は紗季──妻だった。
「A4のノートが棚に無いんだそうだ、在庫残ってないか?」
ニヤニヤと楽しそうに夏王が言ってくる。全てを分かった上で楽しんでいるのが目に見えて余計に頭にくる。
「・・・見てきます」そう言って秋人は在庫確認に戻った。
あの鬼は!
やり場のない怒りを覚えた。わざわざ本人と悟らせるように名前を呼ばれたのだ、この姿では会えないと言ったのを分かっていながら!
いや。
姿は元に戻ってきたはずだ。身長はまだ高いし肌の色は赤黒く、頭に角こそ生えているものの会えないという訳ではないかもしれない。
どうして今、会えないと思ったのか・・・。
秋人は軽く頭を振った。
ノートは二冊残っていた。それを二冊とも掴んで部屋を出た。
「二冊残ってました」
そして紗季の顔をあまり見ないようにしながら手渡して、余った一冊は商品棚に置いた。
「どうもありがとう・・・ございます」
か細く聞こえた懐かしい声。そして店を出る際に見えた悲しそうな横顔が鋭く胸に突き刺さった。
あの日事故を起こさなければ。
あの日あの道を通らなければ。
あの日出かけていなければ。
鬼にならなければ。
帰っていれば。
・・・。
後悔の念が溢れてきて止まらなかった。実際に会うまで分かっていなかったのだ、いなくなってどれほどの迷惑をかけたのかを。どんなに苦労させたのかを。
そんなことを考えもせず、人に戻れるか戻れないか、もう戻れないんじゃないかと考えるだけだった自分にひどく腹が立った。戻れるかどうかじゃなくて、戻らなければならなかったのだ。
「夏・・・店長、早退していいですか?」
思い立ったら止められなかった。今すぐにでも元に戻って沙季を安心させてやりたい。今なら何でもやれる気がした。
「ダメだ。今のお前を帰したら何をするかわかったもんじゃない。鏡でも見たらどうだ?」
夏王が素っ気無く言う。確かに秋人は今にも暴れだしそうなくらい力んでいた。それは秋人自身にもよく分かっていた。いやむしろ、この心のままならば何でもできると思ったのだ。
憤りを抑えたまま秋人は従業員室へと入り、そして思わず息を呑んだ。扉の向こうで待っていたのはまぎれもなく鬼だった。
不恰好に制服を着、自分で切った不細工な頭には似合わない小さな帽子をつけている。黒い髪のすぐ向こうには、日焼けでは済まされないような赤黒い顔が射殺すような目つきでこちらを見ていた。
一番見たくない顔だった。姿が鬼になったとしても心は人間でいると思っていた。だが自分を見つめるその表情はまるで鬼だ。
こんな顔で僕は何をするつもりだったのか、そう考えると急に全身から力が抜けて秋人は脱力してその場に座り込んだ。
今すぐにでも家に帰りたい、そんな思いは鬼になった時からずっと持っている。だけど自分さえ恐れるこの顔を、この姿を誰が認めてくれるだろうか。誰も認めてくれはしない。それならば少しでも早く人に戻らなければいけない、しかし人を喰う事ができない・・・。
絶望の螺旋はゆっくりと秋人を蝕んでいく。
「どうだ、少しは落ち着いたか?」
夏王がそう言いつつ入ってきたが秋人は、ああ、と気のない返事を返しただけでまだ地べたに力なく座っている。
「落ち着いたならもう帰れ。そんななりじゃまともに仕事もできやしねぇ、家に帰って冬弥と一緒に飯でも作ってろ」
あんたのせいで、そう言いたいのを秋人はぐっとこらえて、服を着替えた。薄手のジーンズに春用のジャケットはこの三月の気温には不似合いだが、真冬でもほとんど寒さを感じないこの体ならこれで十分だ。忘れないようにしっかりと野球帽を深めに被って、マフラーを巻いて軍手をはめる。人から見れば奇怪極まりないが、肌を晒して歩くよりもこの方がいい。
「おい秋人」部屋を出ようとすると夏王が呼び止めた。「一ついい事を教えてやろう。お前の息子だがなぁ」
内容によっては聞かずに去ろうとも考えていた秋人だったが、息子と言われて思わず立ち止まった。紗季同様、昴の近況も知りたい事ではあったからだ。
しかしどうしてこの鬼が、こんな事を知っていたのだろうか。
「五年前からあの医療センターに入院してるってよ」
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