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2006.01.23 シキ(2)
中章  死期


見下ろす町並みはただ本当に低くて、夕焼けが差す角度のせいか薄もやの中に消えていきそうだった。そんな二十一階でエレベーターは音も立てずに止まり、扉の向こうにはナースステーションが見えた。
歩き始める紗季のすぐ後ろを秋人がついて行く。
全体的に消毒用アルコールのにおいがする廊下。看護師達の話し声の他には何も聞こえず、コツコツと足音が反響する。何となく居心地の悪い秋人が五つ目の部屋を数えた辺りで紗季は止まった。
2105号室──柊昴の文字。
紗季は軽く扉をノックすると「昴、今日はあなたのお見舞いに来てくれた人がいるのよ」そう言って秋人をうながした・・・──

夏王はそれだけを言うと煙草を取り出して火をつけ、そのまま黙ってしまった。秋人自身一歩外に出た形なので戻るに戻れずそのままコンビニを出た。
あの鬼は悩んでいる最中にさらに悩みをつれてくる。
少し頭を冷やそうと思った秋人は、そう遠くない公園で休もうと足を向けた。そこに現れたのが先ほど帰ったはずの紗季だった。
「もしよかったら少しお話できませんか?」
突然の事態に秋人はただ戸惑うばかりだったが、その後に続いた紗季の言葉に呆然となった。
「あの・・・記憶喪失って本当ですか?」
「え?」
思わず聞き直してしまう、それほどまでに突然だった。キオクソウシツ?
「夏王さんが言っていたんですよ、秋人・・・さんは記憶を失っていて、俺が住まわせてやっているんだって。だから気になっていたんです、あなたの事」
またあの鬼か!そう考えると怒りがわいてきた秋人だが、今度は冷静でいられた。瞳の奥の暗闇に住まう鏡に写った鬼の顔、あんな顔はもう二度としたくない。
しかしこの状況をどうするべきか、秋人にはまったく解らなかった。
「あなたは・・・私の知っている人にどこかよく似ている」
そう話す紗季の目は射抜くように鋭く秋人を見つめていた。「そう、なんですか」その視線を避けるように目をそらす。今はまだ解ってほしくない、こんな姿になった事を。
「あ!すみません、自己紹介がまだでしたよね。私は柊紗季といいます」
「えっと、秋人・・・です」
ぎこちない自己紹介をした後、秋人からの提案で二人は近くの喫茶店に入った。鬼の体にはたいした事はないがまだ外は寒い季節なのだ。小さいが古風で落ち着いた雰囲気の喫茶店で、それぞれ珈琲と紅茶を注文した。
「あの・・・か、変わった服装をしてらっしゃいますよね」
とても気まずそうに紗季は言った。
それはそうだろう、喫茶店の中に入っても秋人は依然マフラーに帽子、軍手をつけたままなのだ。人の目線が突き刺さるが秋人もそれを外すわけにはいかない。
「いやその、や、火傷をしていて、あまり人目に見せるわけには・・・」
我ながら苦しい嘘だったが「そうですか、すみません余計な事言ったりして」と紗季に妙な気を使わせる事になったもののなんとか言い訳にはなった。
「それで、何か覚えていたりはしないんですか?例えば・・・家族の事、とか」
椅子に上着を掛けつつ紗季は聞いてきた。
紗季は昔から勘がいいから、目の前の人間が秋人だと既に解っているのかもしれなかった。それならいっそ全てを話してしまえるのではないだろうか、そんな風に考えたりもした。
しかし。
今はまだ、知られたくない。
「いや・・・それが今はまだ、よくわからないです」
秋人は夏王が作った嘘のレールに乗ることにした。自分さえ恐れるこの姿を人に、ましてや一番信頼できる人間に見せて恐怖される事が何より怖いのだ。
「そうですか・・・」少し寂しげに下を向いた紗季の仕草がどこか懐かしく思えた。
珈琲が来ると秋人は、それまで着けていたマフラーを外して口に含んだ。当然のように帽子は被ったままだ。
その後しばらく何も話さないままで時間だけが流れた。
「いけない、もうこんな時間」そう言って紗季は残っていた紅茶を飲み干した。「これから息子の面会なんです」そう言って立ち上がり上着を着る。
「息子さんは・・・病気なんですか?」
夏王に言われた一言がしっかりと頭に残っていた。「えっと、店長が教えてくれたんですけど」そう付け足した。
「ええ、五年前から入院しているんです」言った後少し間をおいて「あの、よかったらお見舞いに来てくれませんか?あの子もきっと喜ぶと思うのだけど」そう続けた。
「構いませんよ、特に用事があるわけじゃないですから」
会ってみたい、と素直に思った。言ってから今の自分の姿を思い出したが、それでも紗季と話したことで少し自信がついた。
もっと堂々と振舞えば、いつしか夏王のように平気で暮らせるのかもしれない。
ふとそんな事を考えてしまって、秋人は頭を振って今思ったことを否定した。このまま鬼として暮らす気なんてこれっぽっちも無いのだ。
残っていた珈琲を飲み干しマフラーを再び首に巻くと、少しもたついていた紗季を置いてレジに向かった。財布を取り出して二人分の料金を支払う。
「あの、悪いですよ、ちゃんと払いますから」慌ててそう言いながら追いついてきた紗季だったが「入ろうと言ったのは僕だからオゴりますよ、気にしないでください」そう言って秋人はポケットに財布を直して店を出た。
驚いた顔をした紗季が遅れて店から出ると、深く頭を下げてありがとうと言った。
昴はどんな少年に成長しているのだろうか。記憶にあるのはあの事故の日の朝、まだ布団で寝息を立てている幼い横顔。七年も経ってしまった今、昴は十歳になっているはずだ。
「それじゃ、ついて来てね」
そう言って紗季が歩き始め、秋人はその少し斜め後ろを歩いた。
会えないと思っていたのは僕の考えすぎだったのだろうか、実際会ってみれば恐れていたほどではなかったように思えた。しかしそれでもこの姿を見せるのにはまだ抵抗がある。
今はまだ・・・せめて元の姿に戻るまでは。
考えながら歩く秋人には、目元をハンカチで拭う紗季の姿は見えていなかった。
そのまま二人は高くそびえる医療センターに入って行き・・・──

「や、やぁ昴・・・君、こんにちは。・・・・・・あ!は、はじめまして、秋人といいます」
真白い部屋の真白いベッド、その上に昴は座っていた。そう広くない個室だったが、出入りも出来る大きな窓からは先ほどエレベーターで見た景色とは違い海が見え、不思議と狭く感じなかった。
「はじめまして、柊昴です」
気後れしないしっかりした挨拶に、久々の再会で少し慌ててしまった自分がなんだか恥ずかしく思えた。
入院している割には顔色もよく、医療用器具をつけているわけでもない。部屋の荷物が生活感を感じさせ、入院しているよりもここで暮らしているようなそんな感じに見えた。五年も入院しているのでよっぽど酷い病気かと思っていたが、どうにも違うように思われる。
どうぞ、と言って紗季が椅子を二つ用意したので、秋人はゆっくりとそれに腰掛けた。
「この人は・・・近くのコンビニで働いている従業員なのよ」
「じゃあ、この前言ってた夏王っていう店長のコンビニ?」と昴が問うと、そうよと紗季が返した。
ふぅん、とつぶやいた後昴は紗季に顔を近付けて「服装がめちゃくちゃ怪しいんだけど」と小声で言った。「あれは火傷をしているからって言ってたけど、秋人さんに聞いちゃだめよ、失礼だから」紗季も小声で昴に囁いていたが、雑音も何もない部屋では筒抜けだった。
夏王と紗季は話をした事があるようだ。あの鬼のことだからきっとその時に余計な事を言ったに違いないが、記憶喪失という嘘に今は少しだけ感謝した。そのおかげでこうしてまた、家族と話すことが出来たのだから。
「お母さん、なんだか今日は少し嬉しそう・・・何かあったの?」
「ううん、何でもないわ。ちょっと先生に挨拶してくるから」そう言って立ち上がると「ゆっくりしていってね」秋人にそう言って、荷物は置いたまま出て行ってしまった。
しばらくの沈黙が気まずい。
少しこちらを気にしていた昴だったが、やがて可動式の机を引き寄せて鉛筆で何やら描き始めた。
「何を描いてるんだい?」
秋人がそう尋ねると無感情に「絵」という答えが返ってきた。その絵を見てみると、どうやら窓から見える景色の風景画のようだ。繊細なタッチで丁寧に描かれたその絵の色使いは、わずか十歳の子供が描いた絵にはとても見えなかった。
「絵を描くのは好き?」
そう聞くと昴はその手を止めて、遠く窓の外の海を見つめた。「ここに入院してからは出来る事があんまり無かったから。でも今じゃ好きだよ、もっといろんな絵を描いてみたい」そう答えてから今度はじっと秋人の目を見つめた。
「お兄ちゃんは、誰?」
そう聞かれて秋人は戸惑った。自己紹介はさっきしたはずだ、ということはそれ以上のことを聞かれているのだろうか。しかし言えるわけがない、君の父親だなんて。
「お母さんが」秋人の返答を待たずに昴は続けた。「とても嬉しそうだった。あんなお母さんを見るのは久しぶりだよ。お兄ちゃんがいたからでしょ?」
嬉しそうだった?もっとたくさん紗季の笑顔を見てきた秋人にとって今日の紗季は別段嬉しそうに見えなかった。
「本当に嬉しそうだったのかい?」秋人が確かめても昴はうん、としか答えない。しかし、自分には心当たりがまるでなかった。嬉しいのはむしろ、久しぶりに家族と話せた自分の方なのだ。
「ごめん、わからないな・・・心当たりが無いよ」
秋人がそう答えると、昴は少し悲しそうな顔をした。
「昴君はお母さんの事が好き?」
「うん、いつも忙しいのに会いに来てくれるし・・・僕をここまで育ててくれたから・・・」
そう言った昴の目が徐々に暗くなっていくように見えたのは、夕日が沈んでしまったからだろうか。
「だから僕は少しでも早くお母さんを楽にさせてあげたい・・・」
早く病気を治して働いて楽をさせたいと言っているんだと、この時秋人は思った。
いや、それならば自分が元に戻れば、二人とも苦労をさせずに済むはずなのだ。もっと早く会っておけば今頃は元に戻っていたかもしれない。
不確かだった罪悪感が確かなものへと変わり、鋭いナイフとなって秋人の体を貫く。しかしようやく決心に至った。他の誰かを犠牲にしてまでも戻る理由がここにある。
「じゃあ、お父さんは・・・?」
ふと聞きたくなったのは、この子が自分をどう思っているのかということだった。
「・・・僕はよく覚えていないけど、でも僕はお父さんを許さない」
覚悟はしていたが、面と向かって言われると相当きつかった。しかしさらに昴は言う。
「お父さんは体が見つからなかったけど、大量の血が車に残ってて死んだって言われてた。付近の捜索も二年で打ち切られて、僕はその時はもう入院していたけど家では空の棺桶で葬式をしたってお母さんが言ってた。お母さんはきっと生きてるって今でも言ってるけど、それでも時々ここで泣くんだ。ここにお父さんはいないのに、いつまでもお母さんを泣かせるから僕はお父さんが大嫌いだ」
思い切り頭を殴られたような気分に秋人はなった。軽く眩暈を覚え、もちろんマフラーの上からだったが顔を押さえる。
七年という時間は決して自分だけに訪れたものではなかったのだということを、改めて秋人は思い知らされた。鬼の体に慣れたり働いたり、暮らしてきた七年間を、自分は悩みぬいて人に戻ろうと頑張ってきた。しかしそれは本当に今では、意味の無いものに思えた。
夕日は沈んで窓はただ、その暗闇にうっすらとこの部屋を映す鏡となっている。鏡の中には白い部屋に白いベッド、そこに腰掛ける水色の入院服を着た少年と、てんで出たらめな組み合わせの服を身に着けた鬼がただ静かに座っていて、マフラーと深く被った帽子の隙間から覗く眼が秋人をじっと見つめた。
ここから帰ったら遠くへ行こう、見知らぬ誰かに犠牲になってもらって人に戻り・・・。
鏡の向こうで扉が開いて紗季が入ってきた。
「待たせちゃってごめんなさい、今何か飲み物でも」そう言う紗季に対して「そろそろ晩御飯を作らなければならないので・・・帰ります」と秋人は返した。紗季が悲しそうな目をするが、早く人に戻った方がもうこんな目をさせないで済む、そう思うことにした。
「せっかく来てもらったのに何も出来ないで・・・」
「いや、昴君と少し話せたから、それだけで満足してます」
そう言いつつ秋人は扉を開けた。
「お兄ちゃん」昴が言う「また、話をしに来てね」今日の会話で打ち解けられたようには思えなかったが、それでも昴がそう言った事に秋人は感謝した。
「ああ、また来るよ」人の姿に戻って。
「ちょっと玄関まで送ってくるわね」
そう言って紗季も部屋を出てくる。まだ少し話したい事があったから、断りはしなかった。
看護師さんに軽く礼をして、一階で止まっていたエレベーターを待つ。
「昴君、元気そうでしたね」秋人がそう言うと、紗季はにっこりと笑って「明るい子ですから」そう答えた。
「お母さんの事が好きだって言ってましたよ」
「あら、そうですか?嬉しいなぁ」
エレベーターがようやく来て乗り込んだ。夜景は綺麗になるだろうなと行きは思っていたのだが、ただ広がる光の粒のアートを今見ても、暗く淀んだ心には何の感動も沸かない。
今日一日だけでいろんな事がありすぎて心が疲れてしまったようだ。
そんな事を考えながら外ばかりを見ていると、そっと背中に何かが触れる。
「ごめんなさい・・・」
紗季が背中に頭を預けて言った。
「子供に無理をさせるなんて母親失格だって解っているのに、私にはもう・・・あの子にしてあげられることが何もない」
その声が涙色に染まっていく。
「昴の病気、組織脆薄症候群って言うんです。体細胞同士の繋がりが薄くてすぐに壊れてしまって・・・最終的には体が成長する負荷に毛細血管などが耐えられないって・・・今でも体のどこかが痛いはずなのにあの子はそれでも笑って・・・・・・あと一年も生きられないって知っているのに・・・!私は何をすればいいの!?・・・どうすれば昴を・・・」
声が次第に感情に流され始めても、秋人はそれを受け止めてやる事ができなかった。ただじっと背中を貸すだけで、抱きしめることも、何も。
エレベーターは一階に着いたが、幸い待っている人もいなかったのでボタンを押して閉じさせた。彼女はそれからしばらく泣き続けた。
「ごめんなさい」ようやく泣き止んだ後で紗季はそう言った。「恥ずかしいとこ見せちゃって」
「また明日、来ますから」そして、元の人間にちゃんと戻って、と心の中でつぶやいた。
それだけ言うと秋人はそのまま振り返らずに足早に去った。
まだ寒い夜の風が逆巻いて木の葉でつむじを作り消えていく。その風に撫でつけられながら紗季は秋人の姿が見えなくなるまでその場で立ち尽くしていた。


決心を固めたものの、人を殺して喰うなんて事ができるのかどうか。秋人はそればかりを考えていて、気がつけば夏王の住むアパートの前に辿り着いていた。
もはや築何年経っているのか分からないボロアパートの一階、管理人室のすぐ隣に夏王は部屋を借りていた。今では夏王と秋人、それに秋人より一年ほど前に鬼にされた冬弥という男が住んでいる。図体の大きな三人が住むには部屋は小さかったが、鬼を住まわせてくれるようなアパートなどここくらいなものだ、と夏王は言っていた。
いつも帰るよりは遅くなったものの、まだ扉は開いていた。
「お帰り、今日は遅かったねぇ」
部屋に入ると昆布ダシのいい匂いが漂っていた。こたつの上にはガスコンロと鍋が置かれ、その一辺に冬弥が座っていた。
「ちょっと、人と会っていました」そう言って秋人は靴を脱いで部屋に入り、冬弥の対面に座る。
「人と?へぇ、珍しいね。君が一番人と接するのを嫌がっていたのに」
冬弥は秋人より先に鬼になったせいか、まるで夏王のように大胆に人と接しているようだった。最近の夜はいつもバイトに出かけているが、何のバイトかは聞いた事が無い。
目の前にはお椀と箸が並べられていたが、秋人はそれを手に取ろうとしなかった。
「そうだ、今とても酷いニュースがやっているんだよ」
そう言って冬弥はテレビの電源を入れた。どんな酷いニュースでも今は興味が無かったが、流れてくる音声が秋人の目を向けさせた。
「──という事です。えー、本日未明に発見されました三つの遺体ですが、それぞれ受けた傷も似ており、またいずれも子供であるという事で警察本部では連続殺人事件として調査を進めていく方針ですが、傷痕が鋭い爪でえぐられた様な形をしている事から、熊のような野生動物がやったのではないかとの声も上がっているとのことです。この地域では八年前にも児童連続殺人が起こって解決しておらず、共通点など含めて調査していく模様です。近隣に住む方々はくれぐれも──」
遺体・・・殺人事件・・・人に戻るために人を喰わなければならない自分が通る道。これから自分がしようとしている事はこの殺人犯と同じように報道され、誰かが泣き、誰かが憎むのだろうか。
「秋人君、ここだけの話だがね」そう言って囁くように冬弥は言った。
「私は、これは夏王の仕業なんじゃないかと思っているんだよ」
「・・・夏王の?」
聞き直しながらも秋人は、それはないと思った。夏王は人間の中で生きる事をどちらかといえば楽しんでいるように見える。それに彼は死にかけていた人間を二人も救っている事になる。そんな夏王がこんな殺人をするようには思えないが。
「ああそうさ、私達と違って夏王は根っからの鬼だからね。熊か何かがやったのかと言ってるけど、この辺りには熊なんていないのさ。だったらそんな爪痕を残せるのは鬼ぐらいなものだ。だいいち夏王は、何を考えているのかも分からないところがあるだろう?」
「そういえば・・・」今日の一連の出来事、その発端は夏王が紗季の目の前で自分の名前を呼んだ事から始まったのではなかったか。そしてあの時夏王は。
夏王の楽しそうな笑い顔が脳裏に蘇ってきた。
「心当たりがあるのかい?」
そう聞かれた秋人は、今まで溜まっていた鬱憤ごと今日の出来事を冬弥に話した。
「なるほど、それは夏王の行動が軽率だったね。あの鬼はどうも、人を窮地に追いやって楽しんでいる節があるからね・・・」そう話す冬弥の言う事は全て的を射ていて、秋人も深く共感した。「結果的に君が頑張ったから事無きを得たけれど、一歩間違っていれば正体がバレていただろう。その紗季さんや昴くんに影響が出なくてよかったよ」
「でも、夏王は人を助けたり困らせたり、どうしてそんな事をする必要があるんだろう?」
「彼は言っていたよ、人間を憎んでいるって。そして彼が本当にしたい事は、鬼を増やす事だって」
秋人の知らない夏王のイメージだったが、今となってはすんなりと理解できた。
なるほど、だから死にそうだった僕を助けて鬼にしたわけだ。そして鬼としての生活に慣れさせ、人に戻らないように紗季の前で名前を呼んで気付かせ・・・?
紗季の前で名前を呼んだあの行動の理由がよくわからなかった。いやしかし、何を考えているのか分からないのは彼が鬼だからなのだ。きっと冬弥が言うように楽しむためにやった事なのだろう。
「気を許してはいけないよ、鬼ってのは何をするのか分かったものじゃないからね」
ニュースは既に別の話に変わっていて秋人の耳には全く届かなくなっていた。しかし一方でそれらの雑音を散らして、冬弥の声だけがしっかりと耳に届く。
「冬弥さん」そういえば、彼は人間に戻ろうとはしないのだろうか?「あなたは人間に戻りたいと思わないんですか?」
「・・・私は、君のように待っている者も、帰りたい場所も無いからね。それに、人を喰ってまで戻りたいだなんて一度も思ったことはないよ」


しばらくして冬弥は仕事に出かけ、それから程なくして夏王が帰って来た。
「おお今日は鍋か、こいつは美味そうだぁ」
テンガロンハットを傍らに置き、かぶりつくように夏王は食事を始める。「仕事をした後の飯は格別にうめぇな!」満面の笑みを浮かべながら白菜や椎茸、豚肉などを箸で次々と鍋から掴んでは口の中に放り込んでいく。鬼の口は多少の熱さではびくともしないのだ。
「なぁ、夏王」そこでようやく秋人は口を開いた。「あんたはどうして僕や冬弥さんを助けたんだ?」
夏王は一度箸を止めて、
「そりゃお前が生きたいと望んだからだって言ったろ。冬弥の方は道に飛び出してきた奴を俺が車で引いちまったからだな」
そう言うとまた箸を進めた。
「本当にそれだけか?鬼の仲間を増やしたかったからじゃないのか?」
秋人がさらにそう尋ねても夏王は食事を続け、そして最後に鍋を掴んでゴクゴクと汁を飲み干した。ぶはっと息を吐き出して、そしてようやく「冬弥に聞いたのか?」そう尋ね返した。秋人はただ頷く。
「あの野郎余計な事を・・・。確かに俺は鬼という種族を増やそうとしてるがな、だからって死にたがっている奴まで鬼にするつもりはねぇんだよ。お前が鬼になったのは、そうなってまでも生きたいとお前が望んだからだ」
そう言われて秋人は黙った。死にたくないが鬼になりたくなかった、なんて答えが矛盾しているのは分かっていた。生きるか死ぬかと問われれば間違いなく生きる事を選ぶ。
「そうでなきゃ」夏王は言った。「嫌いな人間なんかに関わるかよ」
「・・・あんた人間に混ざって生活しているくせに人間が嫌いだって言うのか。どうして?何があった?」
その言葉を聞いて、夏王は一瞬悲しそうな目をしたように秋人には見えた。
「人間は・・・鬼を穢すからだ。俺が生きてきた中でどれくらいの鬼達が穢され、殺されたと思う?鬼が人を殺した歴史は確かにあった、しかし俺が生まれた頃には残りわずかになった鬼達が人里を恐れるように避けて暮らしていた。それでも人間は、鬼は人を殺すからと追い立て闇に葬ってきた。」
夏王の声が徐々に熱を帯びていくのを、秋人は黙って聞いていた。
「立ち向かった鬼は人の血を浴びて人間になり殺された!鬼を殺した人間はその血を浴びて鬼になった!結局それの繰り返しだ、鬼と人間の関係なんて互いが互いの毒であるだけだ!」
そこまで言い切ってから夏王は、荒くなった呼吸を整えた。そしていつものように胸ポケットから煙草を取り出して火をつける。
「自分と違うものを理解できないのも無理はない。ましてやそれが自分を傷付けるものならば特にだ。理解できないから疑い、自分と違うから恐れ、嫌う。ハッ、当然の事だぁな」
理解できないから疑う・・・今まさに秋人と冬弥が夏王に抱いていた気持ちだった。見透かされているわけではないのに夏王の目をまともに見ることができず、目を合わせることを恐れて秋人は下を向いた。
「ごめん」
そんな言葉しか出てこなかった。
「なんでお前が謝るんだ?」からからと笑いながら答える夏王だったが、いつもより声が高いのは無理をしているからだろうか。
「俺がこんな生活をしてるのは人間の文化に興味が沸いたからだ。理解しなければ先に進めないと住んでいた山里を降りてみれば、そこには華やかで鮮やかな人間の世界ってのが一面に広がっていた。だから俺はこの中で暮らして、人間を理解してみようと思ったってわけだ」
手持ち無沙汰になったのか、夏王は傍らに置いていた帽子を掴んで指先に引っ掛けてクルクルと回し始めた。
「あの事故の日も言ったけどさ・・・あんたやっぱ変わってるよ」
やっぱり夏王はカカカ、と笑った。
「変わっていようが俺は好きなように生きてるんだ、関係ねぇな」
そう話す夏王の顔は、いつも通り清々しく見えた。この鬼は思い悩むなんて事と縁が無いのではないだろうか、秋人はふとそう思った。
「まぁそれはいいとは思うが、だからってあんまり人を殺すなよ?」
秋人がそういうと、夏王は馬鹿にしたように笑いながら「誰が好きこのんで人間なんか殺すかよ」そう言った。
「あれ?あんたじゃなかったのか」秋人はそう言いながら、点いてる事も忘れていたテレビのチャンネルをニュースに変えた。ちょうど事件のあらましが説明されているところだ。「これは夏王の仕業だろうって、冬弥さんが。でも違ったんだな」
「ふぅん、冬弥がね・・・まぁ、あいつが鬼になったのは俺の手違いと言えなくも無いし、恨まれていても仕方ねぇがな」
残りわずかになった煙草を灰皿に押し付けて、夏王はまた胸ポケットから新しいのをひとつ取り出して火をつけた。極度のヘビースモーカーである夏王は、毎日五箱は煙草を吸っている。
ククク、と少し違う笑い方をした夏王は「興味深いな、八年前か・・・」と今回の事件よりむしろ八年前の事件に興味を持った様子だった。そしてそのまま中空の一点を見つめて、何を考えているのかピクリとも動かなくなった。
「そういえば、あんた冬弥さんを車で引いたって言わなかったか?」沈黙した空間に耐えかねて秋人が話題を変えてみる。それでもしばらく反応しなかった夏王だったが、やがて体の緊張を解くと口を開いた。
「ああそうさ、狭い夜道走ってたら奴が急に飛び出してきやがった。体は反応したんだが思いっきりブレーキ踏んじまったら壊れて車が止まらなくてな。頭打ったらしくて返事しなかったから無理やり穢して鬼にした。まぁ、お前と違ってつまらねぇ奴だったがな」
全く悪びれた様子もなく笑いながら夏王は言ったが、笑える話じゃない。
「・・・そりゃ恨まれるだろう」冬弥に深く同情した秋人だった。「それで、つまらないって何が?」
「それが奴はな、お前みたいに鬼になった自分を見て悲鳴を上げたり、人に戻ろうと必死になったりした事が一度もねぇんだよ。おとなしく鬼になった自分を受け入れたっていうか、妙に落ち着いていやがった。まぁ心の内は知らねぇがな」
そういえば帰る場所も待っている人もいないって言ってたな、そんな状態だったら素直に受け入れられるのかもしれない。秋人はそう思った。
二十二時を時計が刻む。「さぁてと」この時間になるといつも夏王は深夜のドライブを楽しむために家を出る。「んじゃ行ってくる」
これで夏王と別れた後で人間に戻るために外へ出よう、そう秋人は考えていた。
「夏王、今までありがとう」
夏王がきょとんとした顔で秋人を見る。「なんだ、人に戻る決心がついたのか?」
秋人は力強く頷く事で返答した。
一日でも早く紗季を支えてやりたい。一日でも長く昴の傍にいてやりたい。病院を出てからずっと、その思いで一杯だった。例え自分が苦しむ事になっても、この七年間が償えるのならそれで。
だが。
「せっかく決心したところ悪いんだが、それ明後日辺りにしてくれよ、んじゃよろしく」
そう言い残して夏王はさっさと出て行ってしまった。
秋人はただ呆然と玄関の扉を見つめた。せっかくの決心がガラガラと決壊していく音が聞こえたような気がした。しかし同時に、張り詰めていた糸が少し緩んだような安心感が広がっていくのを感じた。
あの鬼はいつも、人が頑なに決めた何かを一瞬で破壊していく気がする。
気の抜けた秋人はそのまま寝転がった。体が仰向けに行き着くと目が、所々カビで黒ずみ蜘蛛の巣が張られて埃まみれになっている天井を映した。
この天井を見るのも、あの水道を使うのも、このこたつで寝るのも、あの鬼達と暮らすのも。みんな後数日で終わってしまうのだ。特別な思い入れがなくても、七年もこの部屋で暮らしてきた習慣がある。勢いあまって貫いた部屋の壁、握りつぶさないように受け止めて初めて成功したひび割れたガラスコップ、思い返せばきりがないものの七年間が確かにここにある。
ああそうか。人に戻る決心を鈍らせていたものは、何も人を喰うことの嫌悪感や罪悪感だけではなかったのだ。
しかし秋人はそれをゆっくりと手で沈める。心の海に浮かんでいたそれは少しずつ、ゆっくりと静かに沈んでゆく。
今はもう、名残を惜しんではいられない。帰らなければならない理由が確かなものに成ったのだから。
カーテンコールの幕は降り、秋人はそのまま七年間と共に眠った。
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