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2006.01.24 シキ(3)
終章  四鬼


あくる朝、窓から差し込む日の光で秋人は目を覚ました。時計は既に九時を回って光も少し黄みを帯びている。部屋にはいつもいるはずの冬弥の姿も、土曜日で出勤の遅い夏王の姿もなく、静まり返っていた。
だがあの二人は、気分転換に出かけることが幾度もあった。夏王なんかはまた車でドライブでもしてるのだろう、そう思った。
のそのそと起き上がった秋人は眠気覚ましの珈琲を淹れ、それを冷ます事もせず飲みながらぼんやりと今日一日のことに頭を巡らせる。
土曜日は元々バイトの無い日だから昼までは部屋でゆっくりしていられる。午後になったら昨日言った通りもういちど昴の見舞いへ行こう。
昴。紗季はあと一年も生きられないと言っていた。昨日見た時の顔色は悪いわけではなかったが、表面に表れる病気でないのならば当然なのだ。ましてそれを昴本人が理解していて受け入れているのなら、人の目に病人として映らなくても無理は無いのかもしれない。
だけど。秋人は昴の心の内を知りたいと思った。心の中までは演じられないはずだから。
ふと。それはあまりにも身近すぎたためか、あるいは恐れていたのか。今の今まで思いつかなかった選択肢にようやく気付いた。それは闇の色をした希望だった。
秋人は居ても立ってもいられなくなって部屋を飛び出した。帽子だけは忘れなかったが、マフラーと軍手は部屋に残した。
駐車場には夏王の車が止まっていた、ということはドライブに行っているわけではない。
夏王の居場所に心当たりなど無かったが、秋人が知っている夏王の居場所はコンビニしかない。夏王がいることをすがるように祈りつつ、秋人はコンビニへ急いだ。
「夏・・・店長はいないか?」
店の中には夏王の姿はなく、返事も「今日は午後からなのでまだ来てませんよ」との事だった。
その後もしばらく当てもなく探し回ったが、夏王はどこにもいなかった。まぁ午後ならコンビニに来ているだろうし、昴の見舞いが終わった後でも構わない。そう妥協して秋人は十三時を回った時計を見つめ、国立医療センターへ足を向けた。

コンコンと軽く扉をノックして、「こんにちは」と声をかけつつ部屋に入る。紗季はまだ来ていなかったが昴は昨日と同じようにベッドに座って絵を描いていた。だがすぐさまこちらに目を向けると、待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「おにさん!こんにちは!今日も来てくれたんだね」
あまりにも昨日と違う様子に秋人がたじろぐ。昴は椅子を用意して「座って」と嬉しそうに言った。
「き、今日はずいぶん元気そうだね」
秋人の声が聞こえているのかいないのか、昴はそのまま話を続ける。「あのね、お願いがあるんだ・・・」
お願い?何だろう、何かできる事があるのだろうか。そう思っていた秋人は
「鬼のお兄ちゃん、どうか僕を食べてください」
昴の言葉を聞いて秋人はただ戦慄した。背筋を寒気が走り、脂汗が体中から搾り出されているように感じる。今聞いた言葉は幻聴ではなかったか、必死にそう考える自分がいたがまぎれもなくこの耳で聞いた事だった。
「ちょっと待ってくれ、どうしてそんな・・・何を言ってるんだ!?」
昴が自分の力で得た情報であるはずがなかった。
「とぼけたって駄目だよ、お兄ちゃんが鬼だっていうことも、人に戻るには人を食べなきゃいけないってことも全部知ってるんだ」
確実に誰かから話を聞いている、いや、すでに検討はついた。だからあいつは昨日、人に戻ろうとする僕を止めたんだ。
「夏王さんが全部教えてくれたんだ」
だから今日どこかへ姿をくらませていたのか、夏王!
秋人は思い切り歯を噛み締めて、今ここで暴れないように歯止めをかけた。それでも溢れてくる衝動を、両拳を握ってとにかく耐えた。
「だからお願い、僕を食べて!お兄ちゃんは人間に戻りたいんでしょ?」
服に掴みかかってまで懇願する昴を、秋人は払い除けられなかった。昨日とは違って必死になっている昴、この姿がきっと、この子の本当の心の表れなのだと感じた。こんな姿が。
「どうして君は、食べられたいと思うんだ?」
歯を食いしばったままの秋人が尋ねると、昴は掴んでいた手を放してベッドに座りなおした。そして今にも泣きそうな面持ちで、ゆっくりと話し始める。
「僕は、組織脆薄症候群っていう病気なんだって。よく分からないけど、他の人と違って全体の強度があまり無いらしくてすぐに骨折したりするんだ」
昨日紗季に告げられた内容と変わらない。
「この間、先生がお母さんと話しているところを聞いたんだ。毛細血管っていうのがあって、それが端っこの方から壊れてきてるんだって。心臓や脳の毛細血管が壊れたら僕は死んでしまうんだって」
水色の入院服をこぼれ落ちた雫が濡らしていく。
「僕は治ると思っていたから、六年もここでなるべく動かないように生きてきた。けど違ったんだ、僕はもう助からない。だったら少しでも早く死ねば、お母さんの負担が減らせるんだ」
昴の綴っていく言葉に喉が詰まる。
「お父さんが死んだときもボロボロになったお母さんだから、僕が死んでしまったらどうなってしまうのかわからない。だから」
下を向いていた昴が面を上げる。
「お願いお兄ちゃん、僕を食べて人間に戻ったら・・・お母さんを支えてください」
そして深々と頭を下げた。
子供ながらに辛い状況に置かれ、それでも必死に今まで考えてきたのだろう。そうして導き出した答えがどれだけ間違っているか分からないまま、ただこれしかないと強く望んでいるのだ。残りわずかな灯火を、さらに吹き消そうと。
この選択の方がどれだけ母親を傷付けようとしているかも解らずに。
「やめてくれ、そんな事」搾り出すような声で秋人は言った。「僕は君を喰う事なんか出来ない!」
「お願い!人間に戻りたいんでしょ!?」
「僕が戻りたいと思うのは・・・!」
そこまで言って秋人は息を呑んだ。
危うくもう少しで勢いにまかせて言葉を吐くところだった。荒らげた語気を再び落ち着かせて、波立った心を抑えこんで昴の方を向く。
「僕を食べろなんて言わないでくれよ・・・。君がそんなことをするのを、君のお母さんは決して望んじゃいない。それなのに自分から死を選んじゃ駄目だよ」
弱々しく肩を震わせて「何も分かってないくせに・・・」そう昴がつぶやきながら涙を流す。
居たたまれなくなった秋人はその場から逃げるように立ち去った。行き先もすでに決まっている。
今までの夏王の行動は秋人の行動をことごとく砕いただけで、それが結果的に好転していたかもしれない。だが今度の事は・・・昴に自分を喰えだなんて言わせることになった今回はぶん殴らなければ気がすまない。
エレベーターで降りる時間がいつもの倍ほど長く感じられた。外に出るとコンビニまで走り、そして店の中に夏王の姿を見つける。
「夏王、ちょっと」土曜日はさすがに人が多くて、人前で殴るのは避けようと秋人は先に従業員室に入って夏王を待った。しばらくして夏王が入り、ドアを閉めるのを見届けた秋人は夏王の胸倉をつかんで壁に押し付けると拳で殴りつけた。
「おい、いきなりどういうつもりだ?この手を放せ」
手の平で秋人の拳を軽く受け止めながら夏王が言う。
「どういうつもりだと?それはこっちの台詞だ。どうして昴に話した!」
激昂している秋人はさらに胸倉を締め上げたが、夏王は秋人の手首を掴むとくるりとその手を返して見る間に秋人を後ろ手にして押さえ込んだ。
「いい加減にしやがれ、話が全く見えねぇ」
左手で秋人の自由を奪ったまま夏王は、あけた右手で煙草を取り出して火をつけた。
「あんたが昴に鬼のことをなぜ話したのか聞いてるんだ!」
反対に壁に押し付けられた秋人が言う。
「ほぉ。俺が昴に鬼の話をねぇ。それで激昂して飛んできたってわけか、ご苦労さん」
からからと夏王が笑うと、その横っ面を殴ろうと秋人がもがく。
「じゃあ聞くが・・・昴ってのは誰だ?」
「とぼけるな、入院している僕の息子だ!」
秋人がそう答えると夏王はさらに楽しそうに笑った。
「それじゃあその昴が、夏王に聞いたとでも言ったのか?」
そうだ、と秋人が返すと夏王は腹を抱えてさらに笑った。なぜ笑うのか、まだ秋人には理解できない。
「やれやれ、頭に血が昇っちまってまともに考えられないってのか?昨日言っただろ、俺はわざわざ嫌いな人間に関わったりはしない」
言われてようやく秋人の熱が冷めてきた。
「でも夏王に聞いたって・・・」
「まぁその事を話したやつが、夏王って名乗れば夏王から聞いたことになるわな」
言われて初めてその可能性に気付いた。昴は夏王と会った事がなかったのだ、夏王と名乗る者が現れればそれを信じるだろう。
「そんな事、一体誰」そう言いかけて秋人は気付いた。夏王で無いのならば、残るは一人しかいないことに。「まさか、どうしてこんな事を・・・?」
「やっぱり動きやがったか。まぁ理由なんざ本人とっちめて吐かせりゃいい」
そう言って夏王は制服を脱いでハンガーにかけ、帽子もいつものテンガロンを被って部屋を出た。秋人もそれに続く。
「ちょっと後頼むわ、出かけてくる」そう店員に言い残すと、その返事なんか聞きもしないで歩き出す。「お前は昴のとこでも行ってろ、俺は部屋にいないか見てくる」そう言って一人歩いていってしまった。その機敏さに翻弄された秋人だが遅れて病院へ向かった。
エレベーターは屋上で止まっていて、降りて来るまでに少し時間がかかった。
しかしどうして冬弥が?いくら考えてもその答えは出そうになかった。昨日語らっていた時間が嘘のように思われるが、しかし執拗に夏王の仕業と言っていた冬弥の姿に疑問を感じた。
扉が開くのと同時に降りて病室まで急ぐ。夏王はそろそろ家に着いた頃だろう、冬弥はいたのだろうか。
コンコン、と部屋をノックして扉を開けた。静まり返った部屋に人の気配はない。
ぞぞぞ、と体中の毛が逆立つのを感じた。いやしかし、トイレに行っただけかもしれないのだ。秋人はそう言い聞かせ、しかしただ待つ事もできなくてトイレへ入った。だが昴はいない。
他にもまだ可能性はあるのだが、しかし不安は確実に募っていくばかりだ。人が多い下の階にわざわざ昴が行くということは考え難い。
ならば上、屋上か。そう考えるに至った秋人はエレベーターを待たずに階段で駆け上がった。
鬼の話をしたのが冬弥なのだとしたら、昴と接触しているはずなのだ。昴が見知らぬ人について行くというのは考えにくいが、冬弥が夏王と名乗り、紗季から夏王の話を聞いていたのなら可能性はある。
階段を上りきると外へ続くガラス扉があった。そのガラスの向こう、フェンスに囲まれた屋外に二人の背中が見えた。
「昴」
ガラス扉を開けて声をかけた。
外の風はまだ少し冷たいようで、いつもの青い入院服姿の昴は寒いのか肩を震わせる。
幸いにも他に人の姿はない。
「お兄ちゃん・・・」
昴はまだ悲しそうな目をしていた。しかし秋人はそんな昴から目をそらすと昴の近くにたたずむ冬弥を見た。
「やぁ秋人君ようやく来たのかい、待ちくたびれたよ」
薄気味悪い笑みを浮かべたまま冬弥は言う。
「昴に鬼のことを話したのはあんただったんだな」
「そうとも。しかし残念なことに、君は昴くんを拒んだ」
大げさな手振りを交えて冬弥が言う。昨日家で話をした時の冬弥の姿が、今ここにいる冬弥と重ならないのに、そこにいるのは間違いなく本人だった。
「昴じゃない!昴を喰う事を拒んだだけだ!」
冬弥は昴の服の襟を握り締めた。「苦しいよ夏王」そういう昴の声を無視して冬弥は語り始める。
「同じさ。この子はね、死にたがっているんだよ。生きていても誰の役にも立たないことを知っているのさ。だから少しでも役に立って死のうと君に喰われる事を選んだというのに、君はそれを拒絶した。君は死にたいと思う心の全てを拒んだんだ、それはこの子を拒む事と同じだと分からずにね。親にまで拒まれるとは、なんて可哀想な子なんだろうね」
「え」そう言ったのは昴だった。「親・・・?」
「やめろよ、あんた何がしたいんだ!」
止めようとする秋人だがしかし冬弥は止まらない。秋人が歩こうとするのを、昴の首元に爪を突きつけることで冬弥が防ぐ。そうされては動くわけにはいかない。
「私は子供が好きでねぇ」
「・・・そうは見えないけどな」爪を突きつけたままの冬弥に向けて皮肉を言ったが構わず冬弥は続けた。
「人間だった頃は教師をやっていたんだよ。皆良い子達で本当に可愛かったし、そんな日々を送れる事がとても幸せだったよ」遠い目を空に向けて冬弥は話し続けていたが、その瞳に映っているのは空ではないようだ。
「それで夏王にはねられて鬼にさせられたから復讐してるっていうのか、だったら昴を放せ、その子は関係ないだろ」
「おいおい、あまり早合点しないでくれないかな。私は夏王を恨んでいるわけじゃあないよ」そう言って呆れた顔で秋人を見つめる。「子供っていうのは実に可愛い、が、彼らはあまりに難解でわがままなんだよ。私はどの子も皆まるで自分の息子や娘のように可愛がった。それなのに何人かは私を理解しようとはしないんだ、私はこんなにも彼らのために尽くし彼らを愛しているのに!なんて悲しいんだろうね、拒まれるって言うことは」
涙を流しながら訴えるように話す冬弥を秋人は全く理解できなかった。もはや何を言っているのかもわからない。
「それで殺したのか、何ともくだらねぇ理由だな」
背後でした声に秋人が振り返り、昴も冬弥もその声の主を見た。ガラス扉をくぐって入ってきたのは夏王だったが、さらにその向こうには紗季の姿があった。
「お母さん!」昴がそう叫んで走り出そうとするが当然のように冬弥が止め、「昴を放して・・・!」ふらふらと近寄ろうとする紗季を夏王が留めた。
「そうだ、その通りだよ夏王。彼らはいわゆる菌だ、放っておけば周りの子供たちまでも同じ事をしかねない」
「それが八年前、俺がお前を鬼にした日か」
それを聞いて冬弥はククッと笑った。「私にはむしろ鬼の姿は都合がよかった、素性はバレないし力もある。正体さえ分からなければまた子供たちと触れ合えるんだ」
「ははぁん、なるほどな。それで触れ合ったはいいが結局同じ事になったから殺した、それが昨日の事件か。独りよがりにも程がある」そう言ってからからと夏王が笑った。
「黙れ!鬼ごときに分かってたまるか」
そう言って冬弥は夏王を睨みつけると、夏王も睨み返した。
「冬弥、いいかげんに昴を放せ!」秋人が怒鳴る。日が徐々に沈み始めているのが気にかかった。こんな冷気を浴びていては確実に体を壊してしまう。元から体の弱い昴にとってはどれほどのダメージを受ける事になるのか。
しかし冬弥はさらに昴を抱えて「この子も一緒なのさ」そう呟いた。
「この子も死にたいと思っている自分を受け入れてもらえずに苦しんでいるんだ、私にはその気持ちがよく分かる!」
「昴・・・?」紗季の目が昴を見つめたが、昴はうつむいて目を合わせようとはしない。それは、例え無言でも肯定を表していた。「どうして・・・」
「僕は・・・もう生きていたくないんだ」絞るように出した昴の言葉を聞いて、紗季はその場に膝をついてへたり込んだ。
「違う」秋人が呟く。「そうじゃないだろ?君はもう治らない病気だから、どうせ死ぬなら早く死んだ方がお母さんの負担を減らせるんだって、そう言ったじゃないか」
昴からの返事はない。しかし秋人は話を続けた。
「君は死にたいと思ってるんじゃない。君が悲しい思いをしているのは、自分のせいでお母さんが辛い思いをしていることを理解しているからだ」
違う!と冬弥は言ったが、昴は黙ったままじっと秋人を見て、そしてその視界が少しずつ滲んでいく。
「でも勘違いしちゃいけない。お母さんが辛い思いをしているのは、少しでも君に生きていて欲しいからなんだよ。一日でも長く一緒にいたいからなんだよ。だから君が自分から死にたいなんて言ったら、もっと悲しませることになるんだ。だから・・・」
「おいおいどれだけ喋れば気が済むんだ」
ライターで煙草に火をつけながら夏王が、まだ続けようとしていた秋人の言葉を遮った。
「長いんだよ、そこまで喋らなくても賢しいあのガキなら理解してるっての。なぁ、昴?」そして一呼吸。
「周りは関係ねぇ、自分だけの意思で答えろ。生きたいのか死にたいのかどっちだ!」
夕焼け空に響き渡るその大声は打ち上げ花火のように辺りを揺るがせた。秋人も紗季も冬弥でさえもその声に圧倒されて沈黙した。
「・・・きたい」
「聞こえないぞ」
「生きたい、もっと生きていたい!」涙で顔を濡らしながら精いっぱい昴が吼える。
「・・・だそうだ」にやりと笑って夏王が言う。「残念ながらお前はこいつのことを理解できてなかったようだ」
「違う・・・君たちがこの子を感染させたんだ!それに夏王、君はどうして人間に味方するんだ!?人間が嫌いなはずだろう!」
肩を震わせて冬弥が喚く。しかし夏王はテンガロンハットを片手で軽く押さえて「ああ嫌いだな。でも、お前には分からねぇよ。一方的に押し付けて理解しようとしていないお前にはな」そう言った。
今のうちにと秋人は紗季を支えて立ち上がらせた。多少よろけてはいるものの一人で立っていられるようだ。
「離してよ、離して!」昴が手足をバタつかせるが冬弥の力にはかなわない。
しかし昴は自分を掴むその腕に思い切り噛み付いた。
「痛・・・この!」逆上した冬弥が昴を掴んでいた手を振り回した。昴は紙くずのように宙を飛び、大きな音を立てて金網にたたきつけられた。
「昴!」悲鳴に近い叫び声を上げて紗季と秋人が駆け寄る。たたきつけられた背中は肉が裂けて出血が酷い。金網がクッションになったものの元々組織が脆い事もあって、骨折が激しいのか体の形が歪んでしまっていた。こんな状態でもかろうじて息をしているのが不思議なくらいだ。
「やってくれたな」そう言って睨みつける夏王に向かって、冬弥は拳を繰り出す。夏王はその拳を受け止めそして握りつぶした。冬弥が短い悲鳴をあげて後ろへ下がり、さらに金網をぎりぎり飛び越えて建物の淵に立った。
冬弥の腕には昴の歯形と、その時抜けたのか歯が一本突き刺さっていた。歯を噛み締めて冬弥はその歯を引き抜く。
「やめとけ」夏王が言う。「お前はすでに昨日」
「私は」夏王の言葉を冬弥はかき消す。「ただ理解されたかっただけなのに」
そして飛び降りた。

──これくらいの高さなら昨日とさほど変わらないだろう鬼の力があればどこでも一人で生きていける彼らのいない場所へ行って今度こそ理解してくれる者を見つけたいそういえば少し体が重くなったような気がす──

「・・・すでに昨日その爪で殺した人間と、今ここで昴から穢されてるんだよ馬鹿野郎」
そう呟いて夏王は吸っていた煙草を線香代わりに投げ捨てた。この高い塔の屋上までは、冬弥が最後に奏でた音は届かなかった。
「おい、昴の様子はどうだ?」
夏王が語りかけてくる。しかしどうだと問われても、今にも死にそうだとしか答えられない。しかし秋人には考えがあった。
鬼になれば助かるかもしれない、今朝思いついたのはそれだった。瀕死の重傷だった自分をも救った力なのだ、今この怪我であっても救えるだろうし、強い身体になれば体組織が脆い病気なんかすぐに治るのではないか。そうすれば昴はもっと生きられるはずだろう。
しかし。自分が七年もの間悩み続け試し続けてそれでも食せなかったというのに、スバルに同じ思いをさせる事になってもやるべき事なのだろうか。
紗季が昴の手を掴んで必死に呼びかけている。しかし昴は苦しそうなうめき声をあげるだけで意識があるのかもわからない。
それでもやっぱり、今死んでしまうよりも少しでも長く生きていてほしい・・・。それがたとえ、どんな姿であったとしても。
「夏王、この子を鬼に」そう言って爪を手の平に食い込ませようと力をこめる。
「待て」夏王が言った。「これはもう手の施しようがない。とにかく今ここにいるわけにはいかねぇから、階段を下りてすぐの裏口へ来い。俺は車回してくる」
言うや否や夏王は金網を飛び越えて宙に身を躍らせた。紗季が小さな悲鳴を上げるがじっとしているわけにはいかない。
「行こう、時間が無い」そう言って秋人は昴を背負った。青紫になった唇を噛み締めて紗季は着ていたコートを昴にかぶせ、下を折り曲げて血を垂らさないようにした。そしてそのまま階段を駆け下りる。
手の施しようが無いはずがない、昴はまだ息をしているのだ。
「昴は助かるよね?助かるよねぇ!?」
必死に階段を下りながら紗季が聞いてくる。「必ず助ける」そう答えて、とにかく人に出くわさないように急ぐ。
「う・・・ぐ・・・あああ・・・」振動が痛いのか昴はうめき声をあげ、血が背中を濡らしていくのがわかった。しかしそれでもただ降り続ける。
15F・・・12F・・・9F・・・7F・・・5F・・・3F・・・・・・1F!
丈の長いズボンを捲り上げて秋人と紗季は肩で激しく呼吸しながら、急ぎ過ぎないように早足でドアを抜ける。そこには既に夏王の車が到着していた。
一瞬驚いた表情を見せた夏王は「さっさと乗り込め」カカカ、と笑いながら言った。
後部座席に昴と紗季を乗せ、秋人は助手席に乗り込んで車は走り出す。病院の前を通り過ぎると、ずいぶんと人だかりが出来ていた。
「いつから気付いていたの?」秋人が問いかけると、紗季はそっぽを向いたまま「喫茶店の財布」と言った。思ったより静かな反応に、結局理解できていなかったのは僕もか、と肩を落とした。
そのまま車は夏王の住むアパートの前に止まり、昴を担ぎ込んで部屋に寝かせ、被せていたコートを取った。入院服は血で染まって赤紫の色をしている。
ひっ、と紗季が息を呑み、秋人は口をあんぐりとあけたまましばらく固まった。
「やっぱりこうなったか」一人理解していたのか夏王はからからと笑い声をあげ、煙草をくわえた。
赤黒い肌をして、頭には小さな一本角を生やして昴は穏やかな寝息を立てていた。
「ええと、何から話せばいいのやら」秋人は困ったように頬をかきながら、紗季に今までの事を昴が目を覚ますまで話し続けた。

「うう、ん・・・」
日が暮れてしばらくしてから昴は目を覚ました。二つの顔が覗き込むように昴を見つめている。それは昴には見慣れた顔と、そしてもう一人は。「お父さん・・・」元の姿に戻った秋人の姿だった。秋人は微笑みかけると、おはよう、と言った。
「元に戻れたんだね」そして微笑みかけ「なんて笑って許すと思ったら大間違いだよ馬鹿親父!」元気一杯罵った。紗季も秋人も夏王までも目を丸くする。
その様子を見てから昴は一人笑い声を上げた。
「なぁんてね。お母さんが本当に幸せそうだから許す」べぇ、と舌を出してさらに笑う。秋人は狼狽しながらも、なんとなく苦笑いで返した。紗季も夏王もからからと笑う。
「昴、ちょっと鏡を覗いてごらん」紗季が言う。言われたとおり昴は鏡を覗き込んで、おお!と感嘆の声を上げた。「鬼だ鬼だ、鬼になってる!」とはしゃぐ。昴は全く悲嘆せずに、むしろ楽しんでいる様子だった。
昴が冬弥を噛んだときに互いが穢されたんだと夏王は説明した。そして昴を背負っているときに流れ出た血が秋人を穢したんだと。秋人は車に乗った時に、窓に映る自分の姿を見て戻っている事に気がついた。
今一番混乱しているのは紗季なのだろう。昴が起きるまでに一通りの事は説明した秋人だったが、常人が受け入れるには余りに現実感がなさすぎる。紗季はいくらか目の当たりにしていると言っても、夫は七年間鬼になっていて先ほど元に戻り、息子は瀕死だったのが今ではピンピンしているかわりに鬼になったなんて、頭の理解が追いついていないように思う。
しかし人を喰うよりもずいぶん簡単じゃないのかこの戻り方。そんな風に秋人は思ったが、夏王を問い詰める気にはもうならなかった。彼も鬼を増やす目的の途中なのだから。
「それじゃ昴も目を覚ました事だし、元に戻そうか」そう秋人はきり出した。少量の血でも人に戻れる事はわかったのだ、あとは包丁で皮を薄く切るなりすればいいだけで、人を喰う喰わないで悩んだりしなくて済む。秋人は自分の手を薄く切る気でいた。
「そうね、そしたら家にも帰れるし」紗季も同意する。紗季は自分の手を薄く切る気でいた。
しかし。
「昴、ちょっとこっち来い」そう言って夏王は昴を近くに寄せると、おもむろに手を掴んで小指を軽くひねった。細い枝が折れるような軽い音が鳴ったかと思うと指がおかしな方向に曲がっている。「痛っ」そう言って昴は夏王の手を振りほどいた。
「何してんだあんた!」秋人が怒鳴るが、紗季はその意味を理解したようだった。
「まだ治っちゃいねぇんだよ、病気の方は」夏王の言った言葉に秋人はただ呆然とした。鬼の治癒力でも治らなかったのか、あの病気は。
「まだ、という事はいずれ治るのでしょうか?」秋人よりずっと冷静に紗季が問いかける。
「まぁ、鬼の体に慣れる頃には完治してると思うが」そして手の平を広げて見せ「五年はかかる」
「五年・・・家で暮らせばそれくらいは大丈夫か」秋人が言うと、紗季もそれに頷いてみせた。
「うん、たった五年くらいたいした事ないよ」昴も嬉しそうに言った。
だが。
「・・・くだらねぇ」
そう呟いたのは夏王だ。
「俺はお前に一度言ったはずだぞ」
そう言うとふてくされたように煙草に火をつけた。
昴にそれは伝わったようだった。少しだけ考え込むと昴は言った。
「ごめんなさい、やっぱり僕は五年間も家の中で暮らせない・・・。せっかく外に出られたんだ、僕はいろんな絵を描きたい!」
そして不安そうに秋人と紗季の目を交互にじっと見つめている。
家で暮らしたいと思っている、そう思っていたのはただの自分の思い込みだった。秋人が帰ってきて紗季を支える存在が出来た今、昴を捕らえておくものなどどこにもないのだ。
「一人でも、大丈夫か?」秋人が言うと
「一人じゃねぇさ」そう答えたのは夏王だった。「俺が行く。絵を描いて暮らすのも人間の理解に繋がりそうだし何より楽しそうだ」カカカ、といつものように笑って言った。
「・・・いつでも帰ってらっしゃいね、待ってるから」にっこりと笑みを浮かべて紗季が言った。だが傍に立っていた秋人の手をぎゅっと握ってくる。涙を耐えているのだと解って、秋人はその手を握り返した。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
思い立ったが吉日とばかりに二人は旅立った。
部屋にあった服を無理やり着て秋人が使っていた帽子を深めに被った昴と、いつもどおりアロハにジーンズ姿の夏王は慌しく、しかしとても楽しそうに車で走り去った。まるで嵐のようだったが、その分いいコンビなんじゃないかと思った。
そして残された二人は静かに家路を歩く。いつか歩いたかもしれない道を、手をつないで。道端に並ぶ桜の木にはすこしふっくらとしたつぼみが、まだ来ない春を夢見て風に揺れる。
そんな並木道の通りに建つ一軒家。ここへ帰るためにかかった時間はおよそ七年。
「おかえり」秋人の待ち望んだ言葉を紗季は言った。
「ただいま」紗季の待ち望んだ言葉を秋人は言った。
彼らは抱き合い言葉を交わす。しかしここからは二人だけの時間。
そう言わんばかりに扉はゆっくり、ゆっくりと、閉じられた。




追伸  色


それからひと月が経った。
昴が入院していた国立医療センターには、週が明けた月曜日に無理やり退院届けを提出した。手続きこそ面倒だったものの、手に余っていたせいか詳しい言及はされずにすんだ。
その次の日は事故以前に働いていた会社を尋ねた。思いっきり幽霊扱いされたが事情を話すと快く受け入れてもらえた。新車を買ったが、あの山道を通る気は二度とない。
冬弥については自殺と断定され、冬弥の起こした事件については未だ調査は続いているものの野生動物という見方が強まっている。まさか誰も鬼が爪で切り裂いたとは夢にも思わないだろう。・・・当然か。
夏王のコンビニは早くも別の店長が来ていた。クビになった事を夏王は何とも思わないのだろうがここだけの話、人の入りが少し減ったそうだ。

そして。

「いってきます」
慌しく玄関を開けて飛び出した秋人の視界が、今日も一面桜色に染まる。心地よい春の風が頬を撫で付けて花びらを降らせては消える。
「ちょっと!お弁当忘れてるよ」
紗季にそう言われて秋人は閉まりかけていた扉を何とかつかんで開けた。ごめんごめんと謝って振り返り、視界の端にそれを見つける。朝の郵便物は秋人が取るのが習慣だ。
請求書、案内状、カタログに絵葉書。それらを持って家に入り弁当を受け取ろうとしてそれに気付く。
差出人の名前の無い絵葉書が二枚。
「ああああ!来た!」
そして弁当を床に落とした紗季と一緒に絵を眺める。
巨大な桜の木。枝葉は端々まで伸び、葉との色合いが絶妙な山桜。その木の下で絵を描くテンガロンハットにアロハとジーンズの男。繊細な線と色合いがやはり美しい。
もう片方には河原の石の上に座って野球帽を被った少年がとても楽しそうに笑っている人物描写。その笑い声が聞こえてきそうなくらい迫力がある。
少しだけ心配していたが、どうやら元気いっぱいな様子だ。

そして二人は幸せそうに微笑んだ。




                    完
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